厚揚げと大根の炒め煮

日が一番長い夏至の頃は大抵梅雨時で、したがって夏至のその当日に晴れていた記憶が生まれてこのかた一度もない。

 

とは言え人の記憶は曖昧なもので、たとえ記憶になくとも晴れていた可能性は存分にある訳だ、どれ調べてみよう……と、インターネットの大海に船を出した矢先、目指していたものとは別のお宝を発見し、それに満足したため、我が海賊団は早々に解散することとなった。

 

そのお宝とは、なぜ夏至は一年で一番日が長いのに一番暑くならないのか、という問いとその答えである。

なるほど、確かに火力が最大であってもフライパンの温度が最大であるとは限らない。火を止めた後の加熱まで考えなければ、意図に反して野菜がくたくたになったり、肉がパサパサになったりするのである。

 

と、言う訳で今日はフライパンで作る簡単なレシピを紹介する。 時短・簡単・酒に合う、と三拍子揃った、つまみにもおかずにも最適な炒め煮である。

 

用意するのは、厚揚げ・大根・鶏肉・生姜。

 

食材に関しては、野菜室のご機嫌次第で適当にまかなえばよろしい。

生姜以外の具材を一口大に切り、大根はひたひたに水を入れたドンブリにラップをして電子レンジで10分。

油をひいたフライパンで鶏肉を炒め、ついで厚揚げ・大根を加える。 この時、電子レンジで加熱したときの湯もおたま一杯くらい加える。

気分の味になるよう砂糖・醤油を加え、汁気がなくなるまで炒める。
仕上げに生姜をすり入れて完成だ。

 

我が家では醤油の代わりにだしつゆを使うのがならわしだが、この時ばかりは醤油を使うのが良い。 だしつゆだとかえってまずくなる、とは、母。

 

日曜の昼間から飲む酒の肴には小松菜とお揚げの胡麻和え。 小松菜を茹でて、揚げ・すりごまと和えるのだが、こちらにはだしつゆを合わせるのが良い。 味の濃いものは夜に食べたいものだ。

 

芋焼酎には生姜味が合うような気がする。

 

ああ、過ごしやすい夜の、風通しの良い縁側がこうも恋しい。
こんなものはこんな雨の日に食べるものではないのだ。 この国はどうしてこうもじっとりしているのだろうか。

肉と冬瓜のスープ

外で飲むビールはなぜあれほどにも美味いのか。

その謎に迫るべく、外で飲むビールの効能や、それに伴う経済効果を研究をしている大学がある……かどうかは知らないが、これは私が今学生ならば是非とも研究したいテーマの一つである。

 

ビアフェスタにビアガーデン、お祭りの屋台や海の家。 世にはあまた多くの外飲み施設があるが、そのどれも、然るべき時期に飲めば大抵の出来事は素晴らしい思い出になる。

とは言え、家で飲むのも悪くないものだ。 窓を複数空け風通しを良くしたら、キンキンに冷えた缶ビールを空け、つまみをつつく。 胃が落ち着いたら、冬瓜のスープをすする。

 

庶民の幸せはこのようにして守られるのである。

 

さてこの冬瓜、冬とは名ばかりの夏野菜である。 そのさわやかな香りと使い勝手の良さで、冷汁やサラダにしてもいただける、夏の万能野菜だ。

 

冬瓜、豚肉か鶏肉、例によってだしつゆ(昆布)、酒などを用意しよう。 冬瓜はわたを取り、皮をむいて一口大に切り分けておく。

 

根菜類は水から煮込むのがならわしだが、この冬瓜も水から煮込む。 沸騰したら肉とだし、酒を加えて火が通ったら一旦火を消す。

これはスープもよく味わえるものだから、水はたっぷり入れて薄味にしておこう。

 

一度冷めると冬瓜が出汁を吸って、冷たくして食べてもすこぶる旨い。 豚を使うと脂の舌触りが悪くなってしまうため、冷たくして食べるなら鶏、温かくして食べるなら豚、というように使い分けるといいだろう。

 

話は冬瓜と逸れるが、夏の初め、田舎の祖母の家の縁側で飲んだ酒。 あれはうまかった。 ベランダでも、庭でもない、縁側。

蚊取り線香の匂いが入り混じる黒霧島の湯割りは、何とも形容しがたい季節のノスタルジーを感じさせた。 ロマンティックと言ってもいいかもしれない。

あの酒を飲むためだけに将来は縁側のある家に住みたいくらいだ。

いや、住むべきなのだ。

 

人はパンのみに生くるにはあらず。 酒のみに生くるのだ。

 

このところ外食が続いてしまい、何か胃に優しいものを……などと冬瓜のスープをすすりながら、その美味しさに感動し、結局はビールを空ける。

 

歴史は繰り返すし、人は学ばないのである。

 

肉豆腐

先日、久しぶりに実家へ帰った。 母の日ということで男性陣を家に残し、母と二人で映画を観、カオマンガイを食べ、銭湯で風呂に入り帰路に着いたは良いものの、待ち受けているのは晩飯の支度である。

 

簡単な料理の代名詞として人口に膾炙しているのはカレーや野菜炒めだが、私は是非ともそこにポトフと肉豆腐も加えたい。

 

やれ玉ねぎを飴色に炒めるなど、不要!

 

とにかく冷蔵庫に肉と豆腐があればそれで結構。 肉は大抵干からびたものが冷凍庫に入っているし、豆腐と納豆はなぜかいつも冷蔵庫の中程に鎮座しておられる。 納豆は使わないが。

切って、煮るだけ。 こんなに簡単で、なおかつ落ち着く飯が他にあるだろうか? また、これは初心者にも至極作りやすい料理である。 というのも、野菜炒めは何だかんだ美味しく作るのが難しいのだ。

 

檀一雄の『檀流クッキング』を読んでいると、中華を作る場面に度々遭遇する。 この本は料理エッセイの中でもかなり示唆に富むものだが、この本に出てくる炒めはとにかく、

  • にんにくと生姜、ネギをみじん切りにし
  • 油に香りを写し
  • 強火で一気に炒める

というのがお決まりのような気がする。 気がする、というのは、この本を誰かに貸したまま随分な歳月が経っており今私の手元にないということなのだが、真偽の如何を確かめたい方はとにかく読んでみることをすすめする。 その時間は無駄にはなるまい。

 

さて、とにかく野菜炒めは案外難しいのである。 その点、肉豆腐は煮詰めるだけ。 ズボラで料理も好かない輩にとっては豚キムチ炒めよりも、カレーよりもレギューラー入りする確率が高いであろう。

 

豆腐、だしつゆ(我が家ではにんべん)、豚肉、長ネギを用意する。

 

豚肉は今回豚バラを使ったが、何でもよい。 なんならひき肉でも牛肉でも良い。 ひき肉を使うなら、後から片栗粉でとろみでも何でもつければ事足りるのである。

 

フライパンに水と出汁を入れ温める。 沸騰したら具材を入れ、酒と砂糖を好みの分量入れる。 ご飯のおかずなら少ししょっぱく。 焼酎のアテなら薄味に。 肉とネギに火が通れば完成だ。

 

書いていて気がついたのだが、これは具材の足りないすき焼きだ。 ならば卵も合うに違いない。 次に作る時は最後に生卵を落として食べることとしよう。

 

すき焼きは好きなものを入れて食べるのだから、その日の気分に合わせていろいろ試して欲しい。 となると、私は今日、肉豆腐ではなくすき焼きの作り方を書いたということになるのだろうか。

ヨーグルトの広がり

考えることをやめた途端にその人間の成長は止まる。 失われた時間は元には戻らない。 ああ、あの時こうしていれば。 今さらどうにもならないこと。 そんな風に考える夜がある。

 

と、適当に書きなぐったところで何が言いたいのかと言うと、食材にヨーグルトを使えるようになれば食卓の表現は如何様にも広がるのではないかということだ。

あの舌に残るなめらかさと旨味、酸味。 あんなものが料理になって美味しくないはずはないのに、何でだって今まで彼の有名なヨーグルト卿の存在を無視していたのだろうか。

 

幼少期からデザート以外での御姿を拝見していなかったせいもあり、ヨーグルトを料理の一員として迎えることはゆめゆめ想像していなかった。 そう、つい最近まで。

 

最初に出会ったのはーそう、中学だか高校生の時分であったろうか。 あれはインド料理と称した反町のネパール料理屋だったような気がする。 家族で食事に来た際、たまには違うものを、ということでヨーグルトのサラダを注文したのだった。

 

そうして提供されたのは、ヨーグルトに塩・こしょうをして、赤と緑のパプリカみじんを混ぜ込んだだけの簡単なサラダだった。 私たち一家は大変美味しくないと思いながらも、そのヨーグルトのサラダを喉の奥に詰め込んでそのボウルを空にしたのだった。

 

そのためか、これはやはりヨーグルトは食事には合わないものなのだという強迫観念が一層色を濃くしただけの出来事として終着してしまった。 今思えばこれがいけなかったように思うのだが、同時にそれが不可抗力であったことも理解できる。

 

今となってはあのヨーグルトのサラダもカレーと相まって美味しくいただけ(るような気がす)るのだが。

 

思えばインドでは丹念に凝ったような料理をあまり口にしなかったように思う。学生の貧乏旅行なのだから当然と言えば当然かもしれない。

 

トマトのサラダを頼んだらトマトの輪切りだけ(もちろんドレッシングはおろか塩もない)が大きな皿いっぱいに盛られて運ばれてきたり、野菜サラダを頼んだらきゅうりの輪切りだけ以下略。

 

ただしスパイスの扱いに関して、インドは他国の追随を許さないほどの多様性を呈しており、家庭料理においてもその技術は如何なく発揮される。 家ごとに独特の配合でその複雑な味を自在に(?)操っているのだ。

何より感動したのはマトンで、カレーでも、串焼きでも、スパイスと羊の臭み、また暑さも手伝ってどんどん箸(スプーン)が進んだものだ。

 

話は逸れるが、「インド人はどこにいってもインド人」という持論がある。 例えば弊社にも様々の国籍の人間が在籍しているのだが、昼時に自国の料理をタッパーで持参してきているのは基本的にインド人だけだ。 それはそれは芳醇なスパイスの香りが向かいの席から漂ってくるのである。

 

タッパーの件に関しては弁当の文化があるというのも大きな要因の一つかもしれないが、ゲップを抑えない、また仕事中に鼻くそを深追いし過ぎるというのも他の民族には見られない類まれな特徴だ。

彼らには民族としての強さというか、あの無機質な会社の中にいてもなお、生命の息吹を感じてやまない。

 

さて、閑話休題。

 

本日は特定のレシピというより、食卓のおかずとしてヨーグルトを加える際の、私なりの気分について書いてみたいと思う。

 

一番勉強になるのは、うまいトルコ料理を実際に食べることなのだが、うまいトルコ料理屋は近所にない。 よって、仕方なく家でトルコ「風」を作ることになる。

 

とりたててトルコ料理のレシピを検索したりする必要はない。

 

例えば、玉ねぎと豚肉を炒めたものが大量に残っていたとする。 私はまずこれにトマトペーストないしはケチャップを加えることでマンネリを解消している。 カップルにおいて「場所を変える」ようなものだ。 赤ワインのお供に大変よろしい。

 

それでも余る。 そうしてその余ったものにもろもろのスパイスを加えてみると、随分なカレー風味になる。ビールのお供に大変よろしい。

 

そうしてカレー風味になるとまた、きのこなど、具材を足したくなってくる。具材を足すことで、これがまた余る運命となる。

 

こうして余った、スパイスたっぷり、カレー風味の何がしかの炒め物に極めつけとして加えられる最後の一手がヨーグルトなのである。 これはトルコ「風」よろしく、お供はウォッカでよろしい。

 

例えばロシア料理には大抵サワークリームが添えられているのだが、これはヨーグルトでも代用できないこともない。 ボルシチならずとも、ビーフシチュー、カレー、ハヤシライスにヨーグルトを最後にひとかけしても、味が面白くなる。

 

濃くなりすぎたディップに加えてのばしても良い。

肉のソースにしても良い。

サラダのドレッシングにしても良い。

案外味噌などと合わせてもいける。

 

肉や玉ねぎで作った水餃子(ペリメニ)のソースとしてヨーグルトソースをかけていただくのは幸せ以外の何者でもない。 私はこれを初めて食べた時、食べながらこの食事が終わってしまうことを心から悔やんだ。

頰が緩んで口から餃子が出るかと思った。 それくらいうまかった。

 

これを読んだ紳士・淑女は是非とも食卓にヨーグルトを加えることを恐れないで欲しい。 あんなに安価で手軽で、かといって余計な添加物が入っている訳でもないのに、かのような深い味をもたらす食材は他に類を見ないのだから。

そば粉のガレット

レシピに、マジョラム、八角、 サワークリーム……といった名前を見かけるとみるみる創作意欲がしぼんでいくのと同様に、そば粉もそうした現象を引き起こさせる食材の一つではないだろうか。

まず、そばを作る以外にそば粉を使うシーンなど、「そばがき」くらいしか思い浮かばない。
そのそばがきでさえも、最近は食卓に上っているところをとんと見ないし、あえて作ろうとしない限り、なかなか手が出せない料理なのではないだろうか。
(とは言え、個人的にはそばがき汁粉が何にも代え難い美味しさをはらんでいると思う。)

そうしたことを鑑みた上で、それでもやはり私が今日紹介したいと思っているのが、そば粉のガレットだ。ガレットとは、そば粉の入ったクレープ生地の上に、チーズやハム、マッシュルームなどの好きな具材を乗せたフランスの郷土料理(?)である。

私の友人の一人に、笹塚に住むフランス人のクリエイターがいる。
フランス人の関心ごとといえば、バカンス・本・食事ばかりだ。もちろんこれは偏見だ。
それでも、彼らが今上げたものについて日本人の大多数よりも関心の強い人が多いということは事実ではなかろうか。

まあそんなことは統計でも取らない限りわからないことだし、ましてや統計を取ったところでどうなるということでもない。何にせよ、私は食事がすきなフランス人に、料理をするかどうかを聞いてみたのだ。

「フランスで一人暮らしをしていた時は結構していたかな。物価が高いからね。何を作っていたかな。ガレットと、ハンバーガーと……サンドイッチとかかな」

そこで私はハンバーガーとサンドイッチを料理と呼ぶということに日本とフランスの文化の隔たりを大きく感じた訳だが(もちろんどちらも料理に違いはないのだが、料理の代表として挙げられるとなかなかどうして新鮮に感じるのが日本人ではないだろうか?)、そうか、フランス人男性が一人暮らしをした時に作る代表料理はガレットなのか、という学びを得た。少なくとも彼に関しては。

日本でいうとガレットは何にあたるだろう?
カレーライスや豚キムチ丼だろうか。ガレットという主食?の上におかずを乗せている体裁を取っていることを考えると、「◯◯丼」全てが当てはまると言えるかもしれない。

作り方は簡単。まず、メインのそば粉とハム、チーズ、卵を用意する。好みで、トマトやきのこを入れても良い。
手の平ひとつかみほどのそば粉に塩をふたつまみを振り入れ、水で溶く。クレープの生地くらいさらさらになればちょうど良いだろう。
弱火で油を薄くひいたフライパンに生地を流し入れ、薄く、大きく大きく、広げる。この時大事なのは火加減などではない。テフロン加工が落ちていないフライパンを使うことだ。テフロンでないフライパンを使うなら、油を引いて、熱々にしたフライパンを使えば良いのだが、初心者には慣れるまで扱いが難しい。

そこで初心者にはとにかくテフロン加工のフライパンを使ってもらいたいところなのだが、このテフロン、経年とともに剥がれてしまう。人間なら経年とともに良い部分も増えるというものだが、テフロンフライパンにおいてはそれは言えない。
経年劣化したフライパンでガレットを作ろうものなら、出来上がったものはガレットと似ても似つかないものになること請け合いである。(それも人生だ)(私は一体何を言っているんだ)

閑話休題。酒の肴ではなく食事を作りたい人はとにかくテフロンフライパンを使ってもらうこととして、生地が固まり始めたら裏返す。そこに卵、チーズ、ハムなどの食材を乗せ、蓋をして弱火で焼き、卵が好みの硬さになれば蓋を取り、ガレットをフライパンから皿にスライドさせる。

外側を4辺折り混み、四角い形に成形するのが特徴的な盛り付けらしい。
フランス人の彼に言わせれば、食べ方は個人の好きなように!とのことなので、盛り付けも個人の裁量に依るものとしたい。

たったこれだけ。なぜガレットがこんなに簡単なのかというと、ひとえに生で食えるものを事前に加熱(加工)することなく乗せられるからだろうと個人的には考えている。
生で食べれないきのこ類や、豚肉を使う場合は最初に炒めておいて、生地に乗せるのが良いだろう。

最初にも述べたように、そば粉は日本人にとってそばに使う以外に馴染みのないものであることは百も承知だ。それでも私がガレットを勧めるのは、ひとえに私がそば粉を愛しているからである。

そば粉は小麦粉などと同じように、とりあえずストックしておけるものだし、イオンなどにも案外こじんまりと売っている。小麦粉で作るより味に奥行きがあるし、何よりおしゃれで料理が楽しくなる。(インスタ映えもするかもしれない)

料理好きのみなさんだけでなく、料理がめんどくさいズボラ諸君にも楽な料理だと太鼓判を押しておすすめしたい料理だ。

 

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お家で作るとうまく広げられない傾向にある

 

ピーナッツバターのソース

ピーナッツバターほど万能なものはない。

と言うと、醤油にも味噌にも豆腐にも豆乳にもなる偉大な「大豆様」によってこの理論はいとも簡単にに崩される訳だが(豆腐に醤油をかけるなど言ってしまえば大豆の上に大豆が乗っているようなものだ)、ピーナッツバターもなかなかに見どころ−−いや、使いどころのあるやつである。

 

このように私がピーナッツバターに対して贔屓目であるのは、ただ今私がチキンのピーナッツバターソースをアテに舌鼓を打ち、チリ産の安い赤ワインで溜飲を下げるているからという理由だけではない。

 

たとえ話をしよう。

 

ごまはどうだろう。 練りごまだ。 練りごまをタネにして、一晩煮出したチキンスープで伸ばしたスープは圧巻である。 また、この練りゴマは市販のだし汁(我が家ではにんべんを使っている)などと薄めても、コクがあり香り高い肉やカルパッチョのソースになる。 いわんや野菜をや。

 

これがピーナッツバターであったらどうだろうか。

 

練りごまで作るさまざまのものは、大抵ピーナッツバターでも応用が効く。 お気づきの方もいるかもしれないが、東南アジア料理などではふんだんにピーナッツが使われている。 そんな訳で、我々も彼らに習い、普段の食事にこのピーナッツバターを取り入れることで、このマンネリ化した食卓にも春とともに新しい風を取り込むことができる。

 

正直に胸の内を話すと、ピーナッツバターは練りごまと比べて需要が高く、安くつくのだ。

 

とは言え、スープで伸ばせばコクが出て、だし汁で伸ばせばソースになり、酢で伸ばせばドレッシングにもなる、このピーナッツバターを放っておくという行為は、一生のうちで知らずに損をする項目の上位10に食い込む。

 

とはとても言えないが、油は旨味だ。

 

レモンバターのソースでも申し上げたように、味を抽象化させ、具体性に落とし込む。 それだけでも、今、現時点で諸君が持ち合わせている様々のレシピで無限の広がりが生まれるはずなのだ。

 

話を元に戻そう。

 

さて、ピーナッツバターのソースはその合わせるものによってかなりの組み合わせを試すことができる。

注意するのは、できるだけ混ぜ物の少ないピーナッツバターを使う。 それくらいだ。ピーナツバターのつぶつぶが入っていようがいなかろうが味に大差はない。 ただ一つ、トースト用に特化したピーナッツバターソフトスプレッドだけは避けていただきたい。

などと言いながら、当の本人は前の住人が置いていったスキッピーのピーナッツバターを使っているのだけど。

 

さてこのピーナッツバター。
スープなら、鶏ガラとナンプラーで合わせて、時にはココナツミルクを加えても面白い。

 

穀物酢と和風だしで伸ばせば和風カルパッチョに、白ワインビネガーで伸ばしてレッドペッパー(当然そんなものは家にない訳だが)を散らせば洋風のカルパッチョに良い塩梅だ。

 

サラダには、適当に家にある酢で伸ばせば事足りる。 あまり固いようなら、電子レンジで温めて混ぜ合わせると良い。

 

私が今日持て余しているチキンのピーナッツバターソースに関しては、酔っ払っているので何を入れたかが不確かなこと極まるのだが、まあ、美味しそうだと思うように材料を入れれば良いのだ。

 

チキンを煮るなり焼くなり蒸すなりチンするなりして火を通し、割いて保存しておけば後はその日の気分でソースを作って和えるだけ。

 

目には目を。 歯には歯を。 前菜には酢を。 メインにはコクを。 それぞれのバランスを考えて加えれば良い。

 

休みが開け、また労働の日々が始まった。 働かねば酒は旨くない。 というのは詭弁かもしれないが、今日もうまい酒を飲める幸せとピーナッツバターに感謝するのである。

ツナ缶は便利だ。手軽にタンパク質を補給できる上に、保存も効く。大抵どんな食材にも合う。

亡命ロシア料理』という本があるのだが、その著者(2人いる)は、アメリカにはあまりにも多くのツナ缶が氾濫していて、人々はその正円柱状の物が海の中を泳いでいると信じている、といったようなことを書いていた。これがユダヤ系ジョークである。ちっともよくわからない。

 

さて、ツナ缶の便利なところは、和える、という行為ができるところにあるのではないかと思う。確かに、肉でもミンチを食材に和えることはできるのだが、どちらかというと和えるというより餡などを作って「まとわせる」という方が、料理界におけるより一般的なコンセンサスなのではないだろうか。

手軽さという意味でも、やはりお手軽に食卓に上りやすいのは圧倒的に前者だ。

 

さて、週末に小学校時代の友人が家へ遊びに来ることになった。友人が来るとは言っても、金がない私は食事もできるだけ安く済ませたい(なんてったって給料は前職の1/3)。

 

酒に金はかけても、家でつくる料理に関しては大した金をかけたくないものである。ましてや気心のしれた友人ならなおさらだ。
とは言え添加物たっぷりのできあいなんぞ食べたくないのだから、もう勝手にしてくれという感じである。勝手にします。

 

1カ月ごとに氷を除去しなければならない不良冷凍庫で肩身の狭い想いをしていたのは、豚ももの塊肉250g、以前作ったポトフで使い切らなかった豚バラ肉100g、豚こま100g……など豚のオンパレードだ。類は友を呼ぶのだろうか。どういうことだ。

 

普段は多くの肉を一気に調理し、朝用・弁当用・保存用など細かく分けておくのが我が家の常というものだが、もも肉250gはさておき他の肉はこんなにちょろちょろあるとなると、いちいち料理せねばならず、働く東京の女にとっては面倒なことこの上ない(神奈川だけど)。ええい、まとめてしまえ。

 

そんな訳で、この日の酒のアテは豚のリエットになった。リエットとは、肉を細かくペースト状にしたおフランスの肉料理である。おフランス。

バゲットやクラッカーに乗せて食べると赤ワインとすこぶる合い、うまい。あなたの手はリエットを取る動作とワインを飲む動作のために、仕事中よりもよっぽど絶えず働き続けることになるだろう。赤ワインとリエットのマリアージュである。は?

 

用意するのは、豚肉、バター、にんにく、玉ねぎ、白ワイン。

鍋にオイルをひき、弱火でにんにくの香りをつける。適当に細かく切った豚を中火で炒め、焼き色がついたら玉ねぎを投入。よくレシピなどでは玉ねぎが飴色になったら〜等と書いてあるが、東京の働く女にそのような時間はない。炒める前にラップをして、透明になる程度にレンジでチンしておくのだ。

 

鍋で全ての材料に火が通り、程よくなったら白ワインをどぼどぼ注ぐ。なければ赤ワインでもいい。とにかくそこにある酒を入れれば良いのだ。この際、タイムやローリエなどの香りの葉物があれば入れると臭みがまろやかになる。しかし大抵そのようなものはない。机上の空論ならぬ鍋底のローリエだ。は?

 

ひたひたの酒が詰まったら、この後は水をまた入れて煮込みに煮込むのが良いのだが、上述の通り、東京の働く女にそのような時間は、ない。はいフードプロセッサー直行!

 

肉とバター、塩、胡椒を入れ、フードプロセッサーを回す。フードプロセッサーがなければ芋を潰すやつなんかで潰してもいいし、それもなければフォークで潰せばいい。潰す場合は結構煮込んでいないとホロっと潰せないので、諦めて肉をもっと煮込むことを余儀なくされる。

 

潰しながら、塩の加減を確認する。確認しながら赤ワインを自分に入れる。とぽとぽ。

本当のところ、ここで飲む赤ワインが何よりも美味しい。調理者の特権だ!

 

赤ワインは人の血となり肉となるためにその色を呈しているのだから、たとえ食事の前だろうと、大いに飲んで結構。全ては赤ワインのその色が決めることであって、私たちに選択権があるのではない。何を言っているんだ私は。

世の中には様々の権利があるが、もし諸々の権利を放棄せねばならぬとしたら、最後に放棄する権利はこの料理中に酒を飲む権利かもしれない。何を言っているんだ私は。

 

リエットは味を良くし、器にぴったりと詰めて冷蔵庫で冷やせば完成だ。
翌日は豆や野菜と和えて出しても立派なおかずになる。そう、肉で和えることができるのである。また、冷凍しておけばやや味は落ちるものの、この味を何回でも楽しむことができる。

 

最初にも触れたが、焼きたてのバゲットに乗せて食べるのがまた、たまらない。

この料理において一番忘れてはいけないことといえば、赤ワインを買っておく。ただそれだけだ!

 

スパイスの効いたアボカドとチキンのトマトソース

私が純真無垢な高校生だった時、nonnoの雑誌広告にあった橋本紡の『九つの、物語』を読んだ。その中で、主人公の兄がスパイスたっぷりのトマトソースを作るシーンがあり、それを読んでから私の中での「スパゲティトマトソース」と言えばもっぱら、酸味のぐっと効いたシンプルなトマトソースと、スパイスをふんだんに入れた楽しいトマトソースの二択となった。

 

ツナ缶と並んで、戸棚にある缶詰の上位を占めるのがトマト缶である。偏見である。

 

KALDIではトマト缶はいつもセールと謳っているものだから、ワインを買うついでについと、手が伸びてしまう。そして荷物は水物が増え、ふうふう言いながら家路につくのだ。

 

トマト缶は偉大である。スーパーで見るトマトは1個150円なんかで売られているというのに、トマト缶ともなればあんなにたっぷり入って100円もしないときた。輸送料はどうなっているのだろうか。

輸送料と言えば、ボルヴィックはフランスの水だというのに、たまに日本の水よりも安い。だから私は、ボルヴィックというのはパッケージだけで、実際のところは東京水だということを信じて疑わない。

 

さて、何はともあれ、トマトソースである。

トマトソースのレパートリーには頭が上がらない。トマトソースに足を向けて寝られない。世界中の至るところ、全国津々浦々、様々の食材を使った様々なトマトソースが存在する。トマトソースパイセンとでも言おうか。

それだけトマトソースのレシピにはいろいろなものがあるのだから、作るレシピは選びたい放題だ。35億より多いかもしれない。このネタまだ大丈夫だろうか。

 

それでも私が作るのは、9割9分、本日紹介するこの「スパイスの効いたアボカドとチキンのトマトソース」なのだ。

 

アボカドとチキンのトマトソースというのはもともと、私が高校時代にアルバイトをしていたイタリアンレストランで作られていたものだ。その時は「アボカドとチキンのトマトソース わさび風味」というのが正式名称であった。気がする。

 

しかし、できたてあつあつのトマトソースではわさびの風味は大抵かき消されてしまう。メニュー名には堂々と鎮座しているのに、言われればわかる、という程度の存在感しか放つことのできなかったわさび。食材界(?)も厳しいのである。

 

用意するのは、トマト缶、にんにく、鶏肉、アボカド、パスタ、オリーブオイルと、好きなスパイスいくらでも。

 

チキンは両面を油で焼き、冷ましたものを手で割いて、焼いた時の鶏の油を絡ませておくと良い。そうすると包丁で切るよりもソースが絡みやすいし、何よりそれだけで酒の肴にもなる。サラダに乗せても美味しい。

 

焼くのが面倒であればラップにくるんで電子レンジで加熱してしまおう。
大抵の面倒ごとはすべてラップにくるんで電子レンジ、で解決する。あなたの会社の人間関係も。 は?

 

ニンニクはさっと薄切りにして、弱火でオリーブオイルに香りをうつす。 こうした場合には、芯をとったニンニクの塊を包丁の面で潰して香りをうつすのが定型らしいのだが、使ったニンニクを全て体内に入れたい貧乏根性の私は(でも塊のまま食べたくはない)、結局薄切りにしてしまう。

 

フライパンからいい香りがしてくるまでに、別の鍋でパスタを茹で始める。

最近は100円均一で購入したパスタの便利グッズもお気に入りだ。 時間もかからない上に、楽なことこの上ない。美味しく食べるというゴールさえ見失わなければ、どんなに邪道な調理をしたところで他人にはあずかり知らぬところだ。

 

フライパンに割いておいたチキンを投入し、もし手持ちのスパイスにクミンシードがあればここで炒め和えてしまう。 パウダーであれば最後で良い。 クミンシードはトマトソースを入れる前に炒まった方が香ばしくて美味しい。

 

トマト缶を開け、木べらで潰しながらソースにする。 味に深みが欲しい方は、ここでコンソメを入れてもいいだろう。 続いて諸々のスパイスを放り込み、続いて茹で上がったパスタと切ったアボカドを入れて炒める。
塩胡椒で味を整えて、完成だ。

 

ペペロンチーノオイル、粉チーズなど好きなものを組み合わせてふうふう食べる。
キリッと冷えた白ワインは昼間から飲むのに最高だし、これはありがたいことに、シャンパンも、赤ワインも合う。 ウイスキーもなかなか。 下戸には麦茶でもいい。

 

このチキンとアボカドのトマトソースは、私が高校生の時分も本当に良く売れていた。 私はこのパスタを作る時はいつも、作ってくれたチーフや憎々憎々しかった店長、バイト仲間のみんなのことを思い出して、この料理の最後のスパイスとするのである。

 

 

ホタテの稚貝とセロリの白ワイン蒸し

高校生の時分、私の通う学校ではファームステイが卒業旅行だった。 私の母親の宮崎にある実家が肉牛で生計を立てており、一年か二年に一度、夏をそこで過ごしていた身としては、その高校時代のファームステイはたいそう慣れ親しんだ卒業旅行になったのであった。

 

そのファームステイ先でご馳走になったのが、ホタテの稚貝のバター焼きである。近年は関東のスーパーでもホタテの稚貝をよく見かけるようになり、夕方の閉店間際、駆け込みで半額シールの貼られたものを買うのが常となった。

 

ホタテの稚貝は、その見た目から嫌厭する人が多いらしい。 稚貝には白く長い、硬いものが貝の側面にこびりついており、それが寄生虫か何かを連想させるかららしい。 ただ、そう、まごうことなくあれは寄生虫である。 正確に言うならば、あれは寄生虫の巣で、あの中に寄生虫がいる。

 

しかし、ホタテの稚貝を食すようになってから早十年。 それから一度もホタテの稚貝で腹を壊したことはついぞないし、その無意味な嫌悪から、あんなに安価で美味しいホタテのスープをパンにつけて食べられないなんて、なんて人生を無駄にしているのだろうか!

 

バターが溶け合ったホタテのスープにパセリを散らす。 その、えもいわれぬ香りのするスープににんにくの効いたバゲットをひたひたにつけて食べる喜びは何にも代え難い。 金曜日でなくとも神に感謝するほどだ。

 

寄生虫なんてものはホタテの稚貝にはつきものなのだし、三年前に購入した美顔器が埃を被って部屋の隅にあるように、無かったものとして話を進めることとする。 見た目を我慢しさえすれば美味しいスープが出る分、寄生虫は美顔器よりはかなりましなはずだ。

 

用意するのはホタテの稚貝、セロリ、パセリ、ニンニク、白ワイン、オリーブオイル、バター。

 

ニンニクはいつもの通りスライスよろしく、浅めの鍋に、弱火で熱したオリーブオイルで香りを油にうつす。今日はたっぷり入れよう。
ニンニクのいい香りがしてきたら、軽く殻を洗ったホタテを鍋に入れ(塩抜きのいらないところがホタテの優れたところの一つだ!)、白ワインで蒸し焼きにする。

 

殻が開いたら薄めにスライスしたセロリを投入し、バターをふたかけ。蓋を閉める。このときバターの代わりに、ギーがあると、なお良い。個人的に、一般的でない食材を勧めるのはあまり好きではないのだが、このギーだけは別だ。 バターよりも身体に良い上、何より香りが良い。 常温保存ができるため、わざわざ切らずにスプーンですくって放り込める気軽さもある。 あとは、気分が良い。

 

セロリが好みの感じになったら、スープの味を見て塩を加減し、パセリをたっぷり振って鍋ごと食卓に出そう。 バターを入れた料理は皿を温めておくか、鍋ごと出すかしないと油が固まり、舌触りが悪くなってしまう。

 

缶ビールをプシっと言わせ、半分ほど飲んだところでぱくつく。 もちろんビールのみならず、白ワインやウォッカも合う。 冷凍庫で冷やしたテキーラもなかなかだろう。

 

ニンニクを擦って焼いたバゲットでも、焼いたバゲットにニンニクを擦ってスープにつけるのでもいい。 このスープにバゲットのスライスを入れてチーズを放り込み、オニオンスープ風にするというアレンジも試みたが、やはりバゲットをスープにつけながら食べる方が、より食卓がにぎやかで良い。

 

ホタテをあさりにしても、ムール貝にしても美味しい一品だ。 ムール貝なら、缶詰の女王トマト缶を加えてトマト風味にするのもまた乙なものである。

ニンニクのアヒージョ

ニンニクのアヒージョ

6時間前に食べた激辛タイ料理が腹に午前24時を告げる頃、ああ何か腹に優しいものは何かと思う。 サフランのリゾットは見た目に反して優しい味がした。 謝甜記のピータン粥も、飲んだ日の翌朝でだって早起きして食べに行きたくなる、美味しくて優しい料理だ。

 

謝甜記の粥は平日の朝に食べるのが良い

www.shatenki-nigouten.co.jp

 

さて、ただの今現在私の腹が痛いことはさておき、とにかくニンニクのアヒージョである。 アヒージョとは、スペイン語のajillo。つまるところ、「ニンニク風味の」という意味らしい。

 

古今東西、昔からニンニクは強壮・強精のある種薬として、紀元前からその栽培が始まっていたという。 その殺菌力も去ることながら、食べた後の臭いという意味では破壊的な殺傷力も持ち合わせている……というのは私の持論だ。

 

アヒージョがニンニク風味を意味するのなら、ニンニクのアヒージョはアヒージョと言えるのだろうか。 そもそも、ニンニクのアヒージョという料理が存在するかどうかも私にはよく分からないが、これは作って(殺傷力という点において)損することもあるが、基本的には得することばかりなので是非とも皆様方に知っていただきたいと思い、紹介する。

 

オイルサーディンというものをご存知だろうか。

 

あれは地理を勉強していた頃だった。 チリのあたりではイワシがよく獲れるので、それを塩漬けやオイルサーディンに加工している、という記述を見た。 その時から私の脳内は、イワシと言えば、チリと言えば、オイルサーディンであった。

 

それからというもの、塩漬けにしたイワシをテキーラとオリーブオイル半々の液体で煮たものをオイルサーディンと称して作っていたのだが、その際に一緒に放り込んだのがニンニクで、イワシは出来上がり早々、飲み会早々に売り切れたものだが、ニンニクとオイルが残ってしまったのである。

 

捨てるなど言語道断、もちろん保管し、料理の度に愛おしく使っていたのだが、これがなかなか良かった。 風邪のひき始めに一かけ。肉の付け合わせに一かけ。 炒め物に一かけ。

 

何せオイルでじっくり煮込んでいるものだから、みじんにする必要もない。 フライパンに放って、フォークなどで潰せばあっという間に材料に馴染むのだ。 塩も馴染ませておけば、そのまま食べてももちろん美味しい。

 

用意するのはニンニク、オリーブオイル、バター(geeでも良い)、酒(テキーラだと尚良い)、塩。

 

ニンニクは皮を向いて洗ったら、水気をキッチンペーパーなどで除く。 ここで 縦半分に切って芽を取っておけば、煮込み時間と苦味を少なくすることができる。 面倒であればそのままで構わない。

 

鍋にオリーブオイルを注ぎ、ニンニクをとろ火で煮込む。 香りがオイルに大体移ったら、塩・バター・酒を加え、ニンニクに焦げ目ができる程度まで続けて煮る。 加減は自分の好みで構わない。

 

ここでお含みおきいただきたいのだが、これは大変高温になるため、味見には大変注意を払うこと!

 

塩加減なんてものは後からいくらでも調整できるので、少なくとも人としての知能を持ち合わせている諸君なら、料理が冷めるまで待つことは容易なはずだ。

私はそのようなものを持ち合わせていないので、よく舌を火傷する。

 

そしてこのニンニクのアヒージョ、5、6個食べた次の日には身体から生ゴミの臭いがするようになることで私の中では有名である。 なぜそんなことが分かるのか。 人に食わせたからである。

 

是非臭いものは自分だけでなく、愛する人と一緒に食べるように。